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それって私の感想ですよね

テーマ:【文系は本当にバカなのか?】

序論

 高校を卒業した人たちは分かるように、高等教育においては「理系は優秀、文系は落ちこぼれ」とも言える認識が存在している。これは受験戦争に至って特に顕著になる。
※自分の出身高校が数学マンセーだったからそう思うのかも知れないが。

 さて、何にでも疑問を投げかける男、Nkznは疑問に思った。本当に、文系は勉強できない人間の集まりなのだろうか。
 そもそも、勉強ができるということは、頭が良い=人間として能力が高いことに繋がるのだろうか。

 まずは、既存の例を挙げることで自己の認識を確認したいと思う。

Q. 人間として能力が高いってどういうこと?
A. 色々ひっくるめて、効率の良い行動(仕事,処理)ができること。実務能力の高さ、と言い換えてもいい。


Q. 理系の人間は、効率の良い行動ができるの?
A. Non. 複雑な数式を解くことはできても、口下手で会話が成り立たないなんて理系人間はゴマンといる。もちろんそういう人は仕事なんてできない。


Q. 文系の人間は、効率の良い行動ができるの?
A. 割とイエス。でも口下手で会話が成り立たなかったりする人は少なくない。


Q. それじゃあ、理系か文系かによって、人間力は判断できない?
A. Yes. 原因は2択の外にある。


Q. それじゃあ、文理の向こう側にある、人間力の判断基準って、なに?
A. それは恐らく、「論理的な思考」ができるかどうかなんだ。


 というわけで、今回は「論理的(Logical)な思考」という判断基準に論点を置いて、話を進めていきたいと思う。

文理の定義と科学的思考

 そもそも、理系と文系は学習能力の高さで分けられているワケではない。学習分野の違いによって分けられているのだ。

 数学、物理、化学などに興味がある、もしくは思考が上手く働く者は理系へ。
 文学、語学、経済学などに興味がある、もしくは思考が上手く働く者は文系へ。

 それだけの、学問上は本当にそれだけの違いなのである。

 ならば、何が文系を下位の学問たらしめてしまっているのだろうか。

 それには「科学的な思考」という言葉が深く関わってくる。
 本来、科学的思考とは「事実を観察し、評価し、再考し、浮かび上がった新たな事実について再考すること」であり、数理的な思考とイコールではない。これは全ての学問に言えることであり、そしてこの科学的思考こそがほぼイコール論理的な思考なのである。
 つまり、人間力が高い=論理的思考ができる≒科学的な思考ができるということになる。
 しかし、我々の常識の中ではそれとは別の認識が起こっている。科学的思考=数理的な思考なのだ。
 科学という言葉が、あまりにも数学や物理といったものを連想させすぎるのだ。数学者や化学者も確かに科学者だが、経済学者や考古学者も立派な科学者ではないか。

 それにも関わらず、大衆が深層心理に抱く常識の中では、

 論理的≒科学的≒数理的

 であるはずの図式が、

 論理的≒科学的≡数理的

 になってしまっているのである。これこそが、文系の学問を貶める原因に他ならないと、自分は思っている。

論理的思考、できる?orできない?

 前項において、理系・文系に貴賎がないことを確認できた。
 それでは、本来の学問における能力差はどんなところで生まれるのか。論理的思考について論点を置いて考えてみたいと思う。

 そういえば、論理的な思考についての定義をまだ済ませていなかった。
 と言っても、自分は学者ではないので自分なりの定義をするしかない。もともとこの文章自体、自分の中にある常識・言葉だけで書いている妄想なのだから。

 Nkznの提唱する論理的な思考の定義、それは

「次にすべき行動について考えること。次の次にすべき行動について考えること。」

 である。
 実務の中で、一個人は様々なファクター(要因)の中で次の行動(身体の動きだけではなく、発言なども含む)を決定しなければならない。リアルタイムで進行する事柄であっても、その思考は常に「現在」について考えているわけではないのだ。今の発言によって次に何が起こるのか。次の行動によって、次の次に何が起こるのか。事態を理解し、未来を予測し、展望を予想し、展開を構築し、誤りを修正し、状況に適応し、環境に対応するシミュレートの連鎖。いささか言葉遊びになってしまったが、「物事が上手く運ぶように、現状を利用して事態を動かせるよう行動するための思考」を行えばいいわけである。
 実はこの言葉、自分が小さい頃から、親に言われ続けてきたことなのだ。最近の実務の中で、本当に大きな意味を持ってきているので、紹介も兼ねさせていただいた。

理系の論理、文系の論理

 さて、この文章はNkznが書いているわけなので、Nkznの定義において話を進める。

 前々項で話した通り、理系の人間だけが論理的な思考を持つわけではない。そもそも論理的な思考は人間すべてが持っているのだから文理というカテゴリの存在すらナンセンスだ。だが、今回は文理について考えているので、あえてこのカテゴリに沿っていこうと思う。

 前置きが長くなったが、要は文系人間でも理系人間でも、優秀な人間は論理的な思考ができるのだ。単純に分野が異なるだけで、思考を重ねて論理を構築していくことに違いはない。分野、という言葉を出したが、これは学問の分野だけに留まらず、人間の思考領域と言い換えてもいい。

 理系にとっての論理的思考の産物は、IT社会であり、バイオテクノロジーであり、技術大国ニッポンである。
 文系にとっての論理的思考の産物は、上手く誤解を起こさないようまとめられた文章であり、スムーズに進行していく会話の流れであり、混乱無く運営されていく政治である。
 思考領域、と先ほど言ったが、それこそが理系と文系の頭の使い方を分ける重要な考え方なのである。

8つの人間カテゴリ

 世の中には「優秀で人間が出来ている」人や、「優秀だが人間としてはちょっと」な人などがいる。この辺の違いが何故生まれるのか、思考領域の話に絡めてカテゴリ分けしてみた。

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A:完璧超人
文理に偏らず、とにかく何でも論理的に考えることができる人。人間関係に関しても論理的思考が働くため、人間が出来ている。
B:理系のすごい人
数理方面に思考が偏っているが論理的な思考能力は高い。数理方面以外への応用が利かないので、仕事をしないとただの変人になりかねない。ただ、有り余る思考能力をある程度人間関係などにも割けるので、重度の社会不適合にはなりづらい。
C:文系のすごい人
弁論能力や、人間関係の構築能力などがやたらと高い人種。レポートなどの文章・文書作成能力も高い。Aに次いで人間社会を上手く渡って行ける人たち。実務派。学校の勉強とか割と苦手だったりする。
D:文系の悪くない人
Cの劣化版。文系学生の大多数。もともと多くない論理思考領域を全て文系思考に費やすため、理数方面は苦手。
E:理系の悪くない人
もともと多くない論理思考領域を全て数理思考に費やすため、文系方面(≒コミュニケーション能力・文書作成能力)の能力は低い。理系学生の多数。
F:文系のダメぽ
文系思考というか、人間関係などについて論理思考を割くのが精一杯で、文系の学術的思考すら手に付かない人たち。文系のおちこぼれ。
G:理系のダメぽ
理数方面に進んでみたけど、自分が何をやっているのか分からない人たち。少ないメモリ領域でフリーズしそうになりながら理数思考を働かせている。もちろん人間関係に割いている思考領域なんてないので、社会不適合者になる。A大生の末路(ぇ
H:本物のダメぽ(学問的な意味で)
物事を深く考える気が全くない人たち。数式を前にすると思考停止。弁論に参加すれば場を掻き乱すだけで有用な意見を出さない。要領を得ない事ばかり言う。自分で言っていることが分からない。


 こんなところだろうか。後半毒舌が入りまくったので内心ビクビクである。ちなみに自分はこれだけよく分からない文章を書いている&そこまで論理的ではないので、Gあたりだろうか。
 世の中にいる「天才」と呼ばれる人種はABC。一芸特化の方が業界では強いので、BC≧A気味かも知れないが。
 そして、多くの学生はほとんどD〜G。普通ですから。
 あ、ちなみにグラフのど真ん中は何の取り柄もない凡人。凡人だけど劣化Aなので世渡りは悪くないレベル。
 Hはドキュン。痛いニュース(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/)の登場人物に多いかも知れない。

結論

 さて、この辺を書いている時点で朝の5時になるが、オチが思いつかないので、そろそろ結論に移りたいと思う。
 文系は本当に馬鹿なのか、という論点で始まった本文だが、実際のところ、実務上の話なのか、学問における話なのかなどで大きく結果が変わってくる。学問の話になれば、もちろん理系科目が苦手、という話になるだろう。しかし、実務上や特定の目的を持って思考を働かせたときは、理系文系関係なく、論理的な思考力を持つ人間が「頭のいい」人間なのだ。